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・9/18 【京】征長副将以下出陣の達書返却の9月14日付幕府書状(こちら)が届く(『会津藩庁記録』五p654) ☆京都のお天気:(『嵯峨実愛日記』) >横浜鎖港・兵庫開港問題 【京】元治1年9月19日、越前藩中老酒井十之丞は、老中阿部正外に外国応接の策を尋ねられ、幕府における開国の国是確立が肝要だと説きました。
阿部は、一定の国是確立は肝要だが、幕威が衰えているため、押し通すのは困難だと歎息したそうです。
※阿部老中は外国掛であり、朝廷に横浜鎖港問題等を報告するために上京しています。酒井は、16日に藩主茂昭に随行して阿部に閲していましたが、その際、阿部は、征長成功後に将軍が滞坂し、諸侯を集めて国是決定をすることになると述べていました(こちら)。 参考:『続再夢紀事』三(2018/6/16) >第一次幕長戦へ 【京】元治1年9月19日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、征長の日限が決まれば、芸州へ飛び、長州藩と支藩の離間工作をする方針を知らせました。
<ヒロ> すっごく生き生きしてます!まだこの時点では攻め滅ぼすつもり満々です。在京薩摩藩は、この後、9月24日に、高崎五六を筑前藩士喜多岡勇平に伴わせて岩国に派遣します。長州の内情は、喜多岡から聞いたものかも? 参考:『西郷隆盛全集』一(2018/6/16) >勝海舟更迭へ 【神戸?】元治1年9月19日、軍艦奉行勝海舟は、近頃「塾」(神戸の私塾)の塾生の姓名・出所が内々に調べられているらしいと日記に記しました。(「この頃塾中の者、姓名出所御内糾ありと云」) この塾は、幕府の機関である海軍操練所とは別に、海舟が開くことを認められたものです。塾生に脱藩浪士や(元)尊攘急進派がいるので調べられたというのが定説だそうです。でも、11日に勝が西郷らと会って幕府抜きの有力諸侯会議をぶち上げて以来(こちら)、薩摩藩・越前藩が朝廷に勝の召命を働きかけたり、越前藩が勝の重用を老中阿部正外に働きかけたりしているので、悪目立ちしてしまったことも一因のような・・・。(もともと似たような考えを主張していて御家門筆頭である越前藩相手にというならともかくも、外様の薩摩(や肥後)にまで幕府抜きを働きかけたというのが勘づかれてしまったとしたら、不穏視されるのは間違いないですよね。ちなみに、越前藩は、勝の論に100%同調してるわけではなく、阿部のいう「将軍上坂⇒征長⇒将軍の下での諸侯会同の国是決定」に同意していますこちら) 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p165(2018/6/16) 関連:■勝海舟@文久2年■勝海舟@文久3年 ■勝海舟@元治1年 |