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元治元年9月19日(1864年10月17日)

【京】越前藩中老酒井十之丞、老中阿部正外に開国の廟算を確立すべきを説く。
【京】西郷吉之助、大久保一蔵に書を送り、征長が決まれば自ら広島へ赴き、長州藩と支藩を離間させる計画だと告げる
【神戸?】軍艦奉行勝海舟、日記に神戸塾(私塾)の塾生の姓名・出所が内々に調べられているらしい記す

・9/18 【京】征長副将以下出陣の達書返却の9月14日付幕府書状(こちら)が届く(『会津藩庁記録』五p654)

☆京都のお天気:(『嵯峨実愛日記』)

>横浜鎖港・兵庫開港問題
【京】元治1年9月19日、越前藩中老酒井十之丞は、老中阿部正外に外国応接の策を尋ねられ、幕府における開国の国是確立が肝要だと説きました。
阿部 近頃、外国応接に殊の外困難な次第があり、心配中である。外国人等が幕府に対して開国の意見か鎖国の意見かを詰問した一件だが、開と答えれば、彼(外国)は忽ち京都に迫って直ちに(条約勅許を?)請うことになるだろうし、かといって鎖とは素より答えるべくもない。故にその返答に苦しむ上、差し当たり、征長の件もある。朝廷は国内の方を先にして外国の方を後にすべしと、これは公然の御沙汰ではないが、やはりのどかにふすべからず。あれといいこれといい、どのように決定すればようか、ほとんど方向に惑っている。何か良い考えはないだろうか。
酒井 重大な事なので、なお熟考の上申し上げるべきですが、元々、幕府において開とも鎖とも一定の国是を立てられない故、そのような御国難の次第になったのです。されば、この際、開鎖のうちいずれにか一定されるのが肝要でしょう。さて、この二つのうち鎖は到底実行不可能なので無論開でしょう。もっとも、開は従来朝廷がお好みにならぬ事なので御懸念もありますが、近頃の御様子では、朝廷も随分容れられないということはないようでしょう。

阿部は、一定の国是確立は肝要だが、幕威が衰えているため、押し通すのは困難だと歎息したそうです。
阿部 一定の国是を立てることが肝要なのは勿論のことだが、近来、幕府の威厳は漸く軽く、一定の廟儀で押し通そうとしても容易に行き届くとは思われず、実に歎息の外はない。
酒井 熟考の上重ねて申し上げることもあるでしょう。

※阿部老中は外国掛であり、朝廷に横浜鎖港問題等を報告するために上京しています。酒井は、16日に藩主茂昭に随行して阿部に閲していましたが、その際、阿部は、征長成功後に将軍が滞坂し、諸侯を集めて国是決定をすることになると述べていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』三(2018/6/16)

>第一次幕長戦へ
【京】元治1年9月19日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、征長の日限が決まれば、芸州へ飛び、長州藩と支藩の離間工作をする方針を知らせました

先便の通り、異難(=外国船の兵庫来航・開港要求)が迫る様子だったので差し迫った問題から取り掛かるつもりを申し上げおいたが、急務の筋もどうにかなりそうで大慶のことである。

(16日に)阿部豊後守様へ越公(=茂昭)がお会いになった際に、家老本田修理・酒井十之上も同席し、形勢が差し迫った理由から段々説いたところ・・これまでの閣老とは違って、何でも打ち明け、相談に及んだという。異船についても、急に摂海に迫ることはなく、阿部閣老の東帰後でなければ(摂海に)出かけないようである。征長をすぐに実行せねばすまされないとの議論で、尾張老公も来る20日御京着の御様子である。総督は御請けにならず、御上京だけはされるということのようだが、当地で押して御請けになるように説得し、速やかに征長を始められる見込みだと聞き、今度は調う訳かと楽しみにしている。(こちら)

これに関連し、今日、(下準備のために)伊東万次郎を(芸州に)遣わし・・・(中略)・・・攻撃の日限が分かれば、すぐに私が芸州へ飛び込み、吉川(監物)・徳山あたりの引き離し策を尽くしたい。(長州の)内輪は余程混雑の様子であるので、「暴人」の処置を長人に付けさせる道もあるかと考えている。吉川または末家等をことごとく死地に追い込んでは打ち破る方も大いに怪我をする。兵力をもって迫り、これらの策を用いれば、十に五、六は背くのではないか。そこをに突然と乗り込めば容易に攻め落とせるかと考えている。いよいよ征討が決定すれば、速やかに芸州へ飛びいるので、左様御得心いただきたい。

一、大樹公もいよいよ上洛の模様である。陸路大津から伏見に出て下坂し、征長を行い、攻め滅ぼした後に、凱旋して入京のつもりである。当月20日頃発途のはずと申すが、当月中には出来るだろう。その前に尾老公が御上京になれば速やかに征長(軍)を発すべしとの含みだという。

(略)

<ヒロ>
すっごく生き生きしてます!まだこの時点では攻め滅ぼすつもり満々です。在京薩摩藩は、この後、9月24日に、高崎五六を筑前藩士喜多岡勇平に伴わせて岩国に派遣します。長州の内情は、喜多岡から聞いたものかも?

参考:『西郷隆盛全集』一(2018/6/16)

>勝海舟更迭へ
【神戸?】元治1年9月19日、軍艦奉行勝海舟は、近頃「塾」(神戸の私塾)の塾生の姓名・出所が内々に調べられているらしいと日記に記しました。(「この頃塾中の者、姓名出所御内糾ありと云」)

この塾は、幕府の機関である海軍操練所とは別に、海舟が開くことを認められたものです。塾生に脱藩浪士や(元)尊攘急進派がいるので調べられたというのが定説だそうです。でも、11日に勝が西郷らと会って幕府抜きの有力諸侯会議をぶち上げて以来(こちら)、薩摩藩・越前藩が朝廷に勝の召命を働きかけたり、越前藩が勝の重用を老中阿部正外に働きかけたりしているので、悪目立ちしてしまったことも一因のような・・・。(もともと似たような考えを主張していて御家門筆頭である越前藩相手にというならともかくも、外様の薩摩(や肥後)にまで幕府抜きを働きかけたというのが勘づかれてしまったとしたら、不穏視されるのは間違いないですよね。ちなみに、越前藩は、勝の論に100%同調してるわけではなく、阿部のいう「将軍上坂⇒征長⇒将軍の下での諸侯会同の国是決定」に同意していますこちら

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p165(2018/6/16)
関連:■勝海舟@文久2年勝海舟@文久3年勝海舟@元治1年

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